播磨の守護大名「赤松氏」の居城・白旗城

地名の由来
地名の由来山城歴史上の人物
「特急スーパーはくと」の車窓から眺めた白旗城(画面中央右)

本日は、播磨国赤穂郡白旗(現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松)にある「白旗(しらはた)城」をご紹介させていただきます。

この城は室町幕府の守護大名・赤松則村(円心)が1336年に築城した城(白旗山の山上にあり、標高は440m)で、建武の新政で後醍醐天皇と足利尊氏が対立した際に、宮方の新田義貞の西進を防ぐために築いたと言われています。

播磨守護の赤松氏4代当主・赤松則村(円心)【1277〜1350】

実際に赤松則村は足利尊氏が九州に追いやられた時も、忠誠を誓い続けたことで有名で、後醍醐天皇の建武の新政に反発したことは間違いないでしょう。

後醍醐天皇側の新田義貞が6万の軍勢で攻めた時も、一度は降伏すると見せつつ、巧みな駆け引きで籠城し続け50日余りも耐え続けられた非常に堅固な城であります。

後醍醐天皇の忠臣・新田義貞【1301年〜1338年】

したたかさを持つ赤松氏の居城・白旗城は、室町幕府6代将軍・足利義教が赤松満祐により暗殺【1441年の嘉吉の変】されて改易されるまで、播磨に睨みをきかせる存在でした。

万人恐怖と称されるほど圧政を行った室町幕府6代将軍・足利義教
足利義教の独裁政権に痺れを切らした赤松満祐が義教を誅殺し、将軍殺しの汚名を着せられた

満祐が義教を暗殺したことで、後に応仁の乱で活躍する山名持豊(宗全)率いる討伐軍が赤松氏を討伐。
後に赤松氏は、南北朝の対立の際に後南朝側から三種の神器を奪還した(1458年)ことにより再興を果たしますが、一時的に歴史の表舞台から消えました。

余談ですが、白旗城の近くには「河野原円心(こうのはらえんしん)」という智頭急行線の駅がありますが、気になる由来はこの地域の地名の「河野原」と赤松則村の法名「円心」を掛け合わせて誕生したとのことです。

兵庫県赤穂郡上郡町河野原にある智頭急行線の駅。

地元の住民からも愛される播磨のヒーロー・赤松則村が後の歴史に大きな影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。

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