【下関】瓦そば発祥の地・川棚温泉

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グルメ温泉
1962年に「川棚温泉の名物料理」として瓦そばが誕生した。

今回は、山口県下関市豊浦町川棚にある「川棚(かわたな)温泉」をご紹介させていただきます。

川棚温泉は、※防長四湯の1つとして数えられ、地元の方々から愛されている温泉です。
中でも川棚温泉が発祥の「瓦そば」山口県の郷土料理として県外の方々が足を運ぶほどです。
※防長四湯とは、湯田温泉(山口市)・長門湯本温泉(長門市)・俵山温泉(長門市)・川棚温泉(下関市)のこと

茶そば・錦糸たまご・細切れ牛肉・小葱・のり・スライスレモン・もみじおろしなど、具沢山の具材で非常に美味しい。
瓦そば発祥の由来が書いてある看板

瓦そば発祥の由来は、
明治10年、西南戦争において熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちは、長い野戦の合間に瓦を用いて野草、肉などを焼いて食べたという話を参考にして、1961年(昭和36年)に旅館を営んでいた高瀬慎一氏が数十年を経過した日本瓦を用い、独自の製法で開発されたとのことです。

瓦そば発祥のお店である「元祖瓦そば たかせ」の川棚南本館の入口
「元祖瓦そば たかせ」川棚本館
「元祖瓦そば たかせ」川棚東本館(※現在は休業中)

これが評判となり川棚温泉の他の旅館でも提供され始め、「川棚温泉の名物料理」とされるようになりました。さらには下関市を初め山口県内各地でも郷土料理して広まったとのことです。

瓦そばの食べ方も書いてあります。

続いては、川棚温泉についてご紹介させていただきます。

川棚温泉の大きな看板

川棚温泉の開湯の伝承は、2つほど説があり、

1つ目は、欽明天皇の頃に遡ります。当時、川棚温泉一帯は大きな沼地であり、沼地には青い竜が棲んでいました。ある日、この地で大きな地震があり、沼地の水が熱湯に変わったため、青龍は死んでしまいました。村人は青龍をあわれみ、青龍権現として祀りました。その後、村人はこの沼地を埋めて田畑とし、幾年月が過ぎた後、沼地であったところを掘ったところ、温泉が湧き出ました。寿永2年(1183年)、時の領主であった平定盛はここに湯屋を建て、湯銭を定めて一般庶民に開放したそうです。青龍権現と呼ばれる松五神社があるのはその名残であり、今も尚守護神として崇められています。

2つ目は、川棚江良の三恵寺の怡雲和尚が、室町時代の応永年間(1394~1427)に川棚に温泉があることを察知し、掘ったところ温泉が湧き出たとのことです。

青龍伝説に因んで、「川棚温泉青龍街道」に設置されている。

このような由来から、JR山陰本線・川棚温泉駅から川棚温泉郷までの道中、
「青龍」のレリーフやマンホールなどが非常にたくさんありました。

青龍街道にある青龍マンホール
青龍街道公園にある「青龍像」
川棚温泉駅に設置されている時計台にも青龍が…

このように、たくさんの青龍が川棚温泉周辺のあちらこちらにいますので、
探しに行くのも面白いかもしれないですね。

川棚グランドホテル

川棚温泉は日帰り入浴施設も豊富にあります。
私は、川棚グランドホテルの中にある「大浴場 山頭火」に行きました。

脱衣場の扉を開けると、びっくり。白い壁一面に言葉がたくさん記されています。
俳人・種田山頭火の俳句が温泉の壁にたくさん描かれており、非常にユーモラスでした。
自由律の俳句で漂泊の俳人と呼ばれた種田山頭火がかつて川棚に滞在し、数多くの名句を詠みました。川棚温泉を甚く気に入り、老後を過ごす庵を組むつもりでいたといいます。
「川棚温泉は私の最も好きな風景」と言わしめたこの地の大浴場に、山頭火の句が刻まれていました。

また、1952年にピアニストであるアルフレッド・コルトーが来日した際に、川棚に3泊し、ホテルから見える響灘と、そこに浮かぶ無人島・厚島の景色に感激し、当時の川棚村の村長に「厚島を譲ってくれないか」と懇願したほどです。村長は「永住するなら差し上げましょう」と快諾。感激したコルトーは「私の思いはひとりあの島に残るだろう」と言い残して帰国しました。
後に、厚島はコルトーの名を冠して「孤留島」と呼ばれるようになりました。

泉質は、含弱放射能―カルシウム・ナトリウム―塩化物泉で、非常に気持ちよくで肌がスベスベになりました。
また、温泉から見える山の景色は絶景で、「これぞ日本の原風景だ!」となんだか懐かしい気持ちになりました。

風情のある無人駅舎

皆さんも川棚温泉へ足を運び、かつての偉人も愛した原風景を心に留め置かれてはいかがでしょうか。

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