【鎌倉殿の13人に登場】源仲章の生涯に迫る!

歴史上の人物
歴史上の人物
宇多源氏の家紋「角立て四目結い」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より

今回は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で生田斗真さんが熱演された源仲章という人物に焦点を当ててみたいと思います。

彼は、急に登場してきたような人物でしたが、元々は京都の貴族として後鳥羽上皇に仕えていました。
宇多源氏の出身で、ルーツを辿るとあの菅原道真を重用し、政治の改革を進めた宇多天皇を先祖に持つ家系です。元々は皇族ということもあり、京都の文化や教養は非常に高かったとも言えるでしょう。

大河ドラマ内でも、北条義時の妻・のえが惚れ込むような描写がありましたね。
実際も京都の文化に憧れる鎌倉の人たちは貴族出身の仲章に一目置いていたのではないでしょうか。

そんな仲章ですが、早いうちから鎌倉幕府とも通じ、京都と鎌倉の橋渡しの役を担っていました。
院御所としても鎌倉を野放しにして好き勝手やられては朝廷の威信を下げるだけですからね。
その点は、後鳥羽上皇を始め、院側近の狙いもあったのでは無いでしょうか。

建永元年(1206年)には、3代将軍・源実朝の侍読(教育係)として抜擢されました。理由は、学問に優れた人材に乏しい鎌倉においては幼少の将軍の教育係に適した人物とされたからと言われております。
※侍読(じどく)…天皇などの朝廷のトップに対し、学問を教授する学者のこと。
主として
四書五経などの儒教の経典が講義されたが、『史記」や『文選』、『老子』などそれ以外からの講義も行われた。

実朝からしたら先生という立場になり、気に入られた仲章は実朝の成長後も将軍の御所の近くに邸宅を与えられるなどし、その一方で廷臣としての地位も保持して、時折上洛して後鳥羽上皇に幕府内部の情報を伝えるなど京都と鎌倉の情報を連携する人物としてより重宝されるような人物になりました。

建保4年(1216年)には5人から9人に増員された幕府の政所別当の1人に任じられ、官位も相摸守から大学頭を経て、建保6年(1218年)には幕府の推薦で従四位下・文章博士と、順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されるに至りました。

位人臣を極め、鎌倉においても重要人物となってきた仲章。
しかし、京都からいきなり来た人を快く思わない坂東武士もたくさんいたのも事実です。
自分達で作り上げたこの鎌倉を取って代わるような良いとこ取りをする人物をこのまま生かす訳がありません。

そこで当時のナンバーワン権力者・北条義時ら幕府首脳は仲章を亡き者とすべく、建保7年(1219年)実朝の右大臣任官の祝賀の拝賀の日を利用し、公暁を唆し暗殺を決行させます。
そして、仲章らは実朝らとともに公暁によって暗殺され、生涯を閉じます。
公暁…鎌倉幕府2代将軍・頼家の遺児母親は源為朝の娘の子であるつつじ

実朝の御代に鎌倉で多大な貢献した仲章ですが、最期については義時と勘違いされて暗殺されたなど、不明瞭な部分が多いのも事実です。恐らく、黒幕には義時や三浦義村らが絡んでいることが間違いなさそうです。権力欲を欲し、鎌倉を我が物にできる思った矢先、それをさせまいと頼朝の薫陶を受けた古参の幕府首脳らに亡き者にされるといった人生で幕を閉じた仲章。

実朝も同時に失ったことから完全に幕府を目の敵にした院御所側。
その後、幕府と朝廷の戦いが「承久の乱」という形で本格的に始まるのです。

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