今回は、武田信玄率いる武田軍と北条氏康率いる北条軍が、永禄12年(1569年)10月8日に神奈川県愛甲郡愛川町三増で激突した「三増峠(みませとうげ)の戦い」をご紹介します。
これまでは、武田・北条・今川の間で「甲相駿三国同盟(こうそうすん)」を結んでいましたが、1560年に起きた桶狭間の戦いで今川義元が戦死してから、それを好機と見た武田信玄は家臣の反対派を粛清し駿河侵攻を開始。
不可侵条約を破った武田に対し、北条側は同盟破棄を宣告。
これにより両者は睨み合うような形になりました。
1569年8月、甲府を出発した武田軍は、2万の軍勢で駿河ではなく北の大門峠に進軍します。
やがて信濃国佐久へ着くと東に向きを変えて、碓氷峠を越えて上野国に入りました。
「まさかあの上杉謙信と川中島の6回目の戦をするのか?」という噂が入り、越中攻めをしていた上杉謙信も大急ぎで越後に戻り、信玄との戦の準備に取り掛かります。
しかし、あろうことか安中城で休息したのち、北条氏康の五男・氏邦(うじくに)が城主の武蔵国・鉢形城(はちがたじょう)を攻めます。
しかし、武田信玄の進軍目的は「武田軍の武威を北条軍に見せつけること」
それはつまり、織田・徳川連合軍との上洛戦に備えて、後顧の憂いをなくすため牽制することでした。
鉢形城の包囲はあっさり解いて、次に北条氏康の三男・氏照(うじてる)が籠っている武蔵国・滝山城に向かいます。ここでは小山田信茂率いる別働隊が、撃って出てきた北条兵を蹴散らし、200の首を挙げたと言われています。(廿里の戦い)
滝山城も落城間近となりますが、早朝になると武田軍は引き揚げ、軍勢を二手に分けて一方は世田谷城・小机城の包囲ともう一方は小田原城の包囲に向かわせました。
ゆっくりと進軍する武田軍に北条氏康は籠城を選択。かつて上杉謙信・山内上杉憲政らの軍勢10万の兵でも落とせなかった小田原城は武田軍2万の精兵でも落とすことは困難でしょう。
信玄もそのことは承知で3日ほどで包囲を解き、甲府へ撤退しようとしました。
あくまで武田軍の進軍目的は「北条兵に武田軍の恐ろしさ・強さを見せつけるため」であり、目的は達成したからです。
武田軍は、相模川沿いを北上しつつ津久井付近で西に方向転換し、甲州街道で甲斐国に帰国する予定でした。
しかし、それを悠々とさせるわけにいかない北条軍は氏照・氏邦・綱成ら1万2000の兵が三増峠の高台で待ち構えていました。同時に、氏康・氏政父子にも出陣要請し、1万の兵を率いて挟撃しようとします。
しかし、相手は孫子の兵法を実践で活用してきた武田信玄です。信玄にも作戦がありました。
早速軍勢を3つに分け、重臣・小幡重貞(おばたしげさだ)率いる軍勢を後方の津久井城を牽制させるために包囲へ向かわせ、赤備えで有名な山県昌景率いる軍勢を志田峠に潜ませ、本陣である武田信玄は小荷駄隊(兵糧や武具を運ぶ無防備な部隊)を先頭に高台にいる北条軍の真下を通過しようとしました。
歴戦の武将だった氏照・氏邦もこれには驚き、「きっと信玄の罠だ」と思いましたが、猛将の綱成はここが信玄を討つ絶好の機会と思い、山を降りて武田軍に襲い掛かりました。
綱成が山を降りたところで氏照・氏邦らの軍勢も山を降り、一斉に鉄砲を撃ちかけます。
「北条軍を山から降りさせること」が信玄の作戦でした。この作戦は見事成功し、小荷駄隊が襲われている間に武田信玄・勝頼父子と馬場信春・三枝守友らの軍勢は高台を占拠し、今度は逆に北条軍が高台から見下ろされる立場になりました。
ここで、志田峠に潜ませていた山県昌景率いる別働隊が背後から北条軍に襲い掛かり、北条軍を敗走に追い込みました。
この時、厚木の荻野付近まで進軍していた氏康・氏政父子は間に合わず、敗走の報を聞くなり小田原へ撤退しました。
この戦いで武田軍の戦死者は900人、北条軍は3000人以上の戦死者を出し、武田軍の勝利に終わりました。
またこの地の伝説では、敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃したことから、その落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないとのことです。
この話の所以は、低血糖症が原因と言われており、空腹時に山道を登ると血糖値が急激に下がり、意識障害や幻覚を伴うとされ、山岳戦に慣れていない平地の北条兵が発症したのではと言われています。
ともあれこの戦いで武田軍の恐ろしさを再認識した北条家は上杉謙信との同盟である越相同盟を破棄し、再び甲相同盟を結びました。信玄の謀は甲相同盟という軍事同盟の形で成功したのです。
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