【日本三大仇討ち】曾我兄弟を祀る箱根神社

合戦
合戦歴史上の人物神社
芦ノ湖に建つ箱根神社・平和の鳥居
箱根神社 拝殿

今回は、関東のパワースポットとして有名な「箱根神社」の中にある「曾我神社」をご紹介させていただきます。
箱根神社は、古来「箱根権現」と称され、およそ2400年前の孝昭天皇の時代に、聖占が箱根最高峰の神山(神が降臨する所)を遥拝できる駒ヶ岳山頂に神仙宮を開いたことにはじまります。

この地に鎮座する「曾我神社」は、日本三大仇討ちの1つ目として有名な「曾我兄弟の仇討ち」の兄弟を祀る神社です。

曽我神社の起源

1193年(建久4年)5月28日、兄・曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)と弟・曽我五郎時致(そがごろうときむね)の兄弟は、父・河津祐泰の仇として工藤祐経を討ち果たしました。

かつて兄弟が小さい時、父・河津祐泰は所領相続をめぐって揉めていた同族の工藤祐経に暗殺されました。そのため、彼ら兄弟は祐経を討つために雌伏の時を過ごしてきたと言われています。

箱根神社の拝殿と芦ノ湖に建つ鳥居を結ぶ石段

「曽我物」では、五郎時致は、箱根権現の稚児の頃に祐経と会うが討ち果たすことができず、祐経の人形を作って調伏したと描かれています。

祐成は養父の曽我祐信を烏帽子親として元服し、弟は北条時政を烏帽子親として元服し時致と名乗りました(『吾妻鏡』)。

そんな彼らに転機が訪れます。

建久4年(1193年)5月、源頼朝が幕府の権威を見せつけるため、富士の裾野にて盛大な巻狩りを開催します。これに参加した兄弟は、富士の巻狩り最後の夜に仇討ちを決行し、見事に祐経を討ち果たしました。

『吾妻鏡』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討ちました。

そんな彼らが仇討ちの直前の5月16日、箱根権現に参拝した曽我兄弟は、別当の行実から、木曾義仲奉納の「微塵丸」源義経奉納の「薄緑」という太刀を授かったと言われています。

曽我兄弟の「兄弟杉」

この後、兄・祐成は駆けつけた北条氏家臣・仁田忠常に討たれるが、弟・時致は頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の宿所に押し入ったが、頼朝の宿所にいた御所五郎丸に取り押さえられ、後日処刑されました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、祐経ではなく好き勝手に振る舞う頼朝を討つために、暗殺を決行したというように描かれていましたが、事は鎌倉幕府の政権に関わることで、鎌倉で謀反が起きたら次なる火種が再燃する恐れがあったため、頼朝は兄弟の父・祐泰が偶然に工藤祐経に討たれていた事実を利用して「仇討ち」にすり替えたことにしていました。

本当の真実はわからないですが、弟の時致は祐経を討った後に頼朝の宿所へ向かっているため、祐経への仇討ちと頼朝暗殺の2人をターゲットにした犯行だったのかもしれません。

いずれにせよ、この政変の飛び火により頼朝の弟・源範頼が粛清されるまでに至っているため、大きな政変だったことは間違いないようです。

曾我兄弟の遺徳を偲ぶ記念碑(曾我神社内)

芦の湯から精進池への国道1号線沿いに並ぶ五輪塔は、曽我兄弟と祐成の妾・虎御前のものと伝えられている。大磯町にある延台寺は曽我兄弟供養するため、虎御前が建てた法虎庵曽我堂を始まりとするとのことです。

曾我兄弟の本懐は遂げたと歴史は伝えていますが、真の敵は頼朝だったということになると…
歴史の見方もだいぶ変わりますね。
曽我神社は、800年以上経った今でも地域住民の方々に厚く信仰されています。

コメント

  1. れもん より:

    いつも勉強になります(^^)
    小倉のサンドイッチ屋さん、ボリューミーでとっても美味しそうですね(*^^*)

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