安徳天皇が生き延びたと言われる伝承地「小倉南区隠蓑」

地名の由来
地名の由来山城歴史上の人物
三種の神器を抱え、源氏の追手から逃げ続けた安徳天皇

今回は、平家のシンボル・安徳天皇が実は壇ノ浦の戦いで入水をしておらず、九州へ上陸して逃げたという説の一つをご紹介させていただきます。

今回の地は、北九州市小倉南区隠蓑(かくれみの)という地域です。
この「隠蓑」という地名の由来は、「壇ノ浦の戦いでで平家が敗北し、入水したと見せかけて平家の公家に連れられて、九州に逃れた幼い安徳天皇がこの地で藁の中に隠れていたという言い伝えにちなんでいます。日本各所に複数言い伝えられる安徳天皇御陵のうちの一つがこの隠蓑にあります。

地名の由来も、このように歴史を知ると見方が変わりますよね。

ちなみに場所は以下にあります。

以前、祖谷のかずら橋の回にも紹介させていただきましたが、徳島県をはじめ日本各地に安徳天皇が生き延びたとされる伝説の地があります。
その中でどの説が正しいかを決定するのかは難しいと思いますが、平安時代末期の時代の人々から現在まで慕われ続けている安徳天皇。非常に興味深いですね。

以下に「安徳天皇が隠蓑にて生き延びた説」を要約すると、
【1185年に壇ノ浦で入水したと伝えられる安徳天皇は、平家の公卿に伴われて門司の田ノ浦に上陸し松ヶ江を越えて豊前長野城主の平家一門を頼り、2~3ヶ月隠れていた。しかし、城主が亡くなったので、英彦山(ひこさん)に向かって城を出たという。横代を通り隠蓑まで来た時は、村は名も無い庵寺の屋根葺替えの最中であった。安徳天皇を探そうと源氏の追手が追って来るのを知った村人は、安徳天皇を守るために、有り合わせの茅や藁などの蓑を持って天皇を隠し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにした。そのおかげで安徳天皇一行は逃れることができたといわれているという。その後、この地にて崩御されたとのこと。】

非常に興味深いですね。様々な説を学習して、興味を持つことも大切だと思います。

豊前長野城は、保元2年(1157年)に平康盛(源頼政の孫)が地名の長野から取って「長野氏」を称したと言われています。

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