北条早雲(伊勢新九郎盛時)の生涯 〜part①〜

歴史上の人物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』伊勢宗瑞 像

今回は、伊勢新九郎盛時こと北条早雲についてご紹介させていただきます。
これまでは戦国時代の先駆けとなった人物として描かれることが多かった早雲ですが、
近年は室町幕府の役人として活躍していたという新たな人物像として注目されています。

なぜ、早雲は伊豆・相模を支配下にすることができたのかをわかりやすくご紹介いたします。

室町幕府の申次衆としての盛時

北条早雲という名は、2代目の北条氏綱の御代につけられたので、生前の名である「盛時」が正しいのだが、ここではわかりやすくするため、『早雲』で統一する。

北条早雲は、備中国荏原荘(現岡山県井原市)出身で、荏原荘の半分を領する領主だった。
父の盛貞は、幕府政所執事の伊勢貞親(足利義政の側近)の一族であり、貞親の申次衆として幕府に出仕していたと言われる。

応仁元年(1467年)に畠山氏の争いから中央政権まで巻き込む形で、応仁の乱が勃発した。
伊勢貞親は8代将軍義政の側近として、東軍側についた。
駿河国守護の今川義忠は貞親と誼を通じていたため、義忠が上洛した際には東軍として組み込むことに成功。その縁で、早雲の姉である北川殿が義忠と婚姻。北川殿は後に今川氏親となる龍王丸を産んだ。

早雲も将軍義政の弟である足利義視(あしかがよしみ)に仕えたという記録があり、室町幕府には欠かせない一族だったそうだ。

姉・北川殿からの要請に応え、駿河へ

文明8年(1476年)、今川義忠は遠江国を攻めるため、出陣していたが塩買坂において西軍に属していた遠江の守護・斯波義廉の家臣に討たれ、討死した。

残された嫡男の龍王丸は幼少で、今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立し、龍王丸vs小鹿範満という対立構造ができた。
加えて関東の名将・太田道灌などが範満派に加勢したため、北川殿・龍王丸は窮地に陥った。

そのため、北川殿の要請に応えるため、早雲は幕府の院宣を持ち駿河へ下って調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。

一旦は京都へ戻った早雲は、足利義政の子で9代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)に仕えたとされる。

しかし、1487年、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかったため、再度京都から駿河へ下向し、範満を打ち果たした。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して今川氏親(うじちか)を名乗り正式に今川家当主となった。

このように氏親の元服に貢献したことで早雲は今川氏の客将となり、以後伊勢家と今川家は強固な絆で結ばれることになる。

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