源 義平 (頼朝の兄)の生涯

合戦
合戦歴史上の人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 悪源太(『新形三十六怪撰』より。月岡芳年画)

今回は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の兄である「源義平(よしひら)」をご紹介致します。

義平は、永治元年(1141年)に父・源義朝の庶長子として誕生しました。
頼朝や義経とは異母弟にあたります。

母は京都郊外の遊女と言われています。
また義平は、力強さ・剛勇な源氏の長男から「鎌倉悪源太」と呼ばれました。

久寿2年(1155年)に起こった父・義朝と叔父・義賢が対立した際には、
義賢の本拠である武蔵国比企郡の大蔵館を襲撃し、義賢を討ち取り武名を轟かせたと言われています。

保元元年(1156年)に起こった保元の乱(崇徳上皇vs後白河法皇)では、後白河院側として活躍し、勝利したのちは「左馬頭(さまのかみ)」に任じられたと言われています。

保元の乱後は、相次ぐ内乱から、摂関家の影響力が低下していました。
その火種は藤原氏の内部争いや源氏と平氏までも巻き込み再燃。

先手を打ったのは、源氏と藤原信頼方で、相対する信西という僧侶を亡き者にしたことで平治の乱が勃発。天皇親政派は熊野参詣中で京都を離れていた平清盛率いる平氏と手を組み、藤原信頼や源氏を勅令によって朝敵にしました。
藤原信頼は殺害され、義平は父・義朝や兄弟の頼朝らと共に本拠である鎌倉を目指して東国へ落ち延びようとしました。しかし、永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑されました。
弟・頼朝も捕まりましたが、清盛の継母の助命嘆願により、伊豆国に流罪になりました。

源氏の若武者として恐れられた義平は無念の死を遂げましたが、その無念は25年後、頼朝により平家滅亡という形で晴らされることになるのです。

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