北条早雲 (伊勢宗瑞)の生涯 〜part②〜

合戦
合戦地名の由来歴史上の人物
北条早雲公像

その後、堀越公方の足利政知が死去し、足利茶々丸は後継者であった潤童子と継母・円満院を殺害。
当時の室町幕府将軍は9代の足利義尚が若くして病死し、義政の弟・足利義視の嫡男である足利義材(よしき)が10代将軍として権勢を揮っていたが、管領の細川政元・日野富子らによる明応の政変により、失脚。

足利政知の子である足利義澄(よしずみ)が11代将軍として就任。

義澄は実の母・円満院(えんまんいん)と実の弟・潤童子(じゅんどうじ)が茶々丸に殺害されたことにより、伊勢宗瑞に茶々丸討伐を命令。宗瑞は「伊豆討ち入り」を決行し、茶々丸を甲斐国へ落ち延びさせることに成功。茶々丸は甲斐国の守護・武田信縄に保護されました。

ちょうどその頃に甲斐国でも武田信縄と油川信恵(のぶよし)兄弟による家督争いが激化しており、早雲は油川信恵と連携。1495年に起きた明応の大地震により、戦争を続けることが困難となり、両者の間で和睦。
その証として、伊勢宗瑞が媒を行い、茶々丸を引き渡すことで和睦成立の条件としました。

茶々丸はその後、宗瑞に引き渡され自害。このようにして、将軍・足利義澄の願いは叶いました。
宗瑞は、忠実な家臣として室町幕府に認められていました。

明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼。扇谷側として宗瑞は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、撤兵しました。

当時、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼が小田原城を守備していましたが、山内上杉家の侵攻にさらされ、宗瑞に援軍を求めていました。そして、山内上杉家家臣・横瀬景繁が小田原城を奪取。
小田原城は山内上杉家に乗っ取られました。大森藤頼は逃亡し、そこに宗瑞の軍勢が到着。
宗瑞の弟・弥二郎の活躍もあり、小田原城を陥落させることに成功し、扇ヶ谷上杉家に返還しようとしたが、宗瑞が守るべきだとし、宗瑞が小田原城に居座ったという。

この小田原城は他にも様々な仮説があり、中国春秋戦国時代の斉の将軍・田単が用いた「火牛の計」で陥落させたなどの説もあるが、私は扇谷上杉・山内上杉の両上杉の争いに乗じて奪った説が当時の情勢を鑑みるに濃厚と考える。

その後、宗瑞は小田原城から扇谷上杉氏と連携し、武蔵立河原の戦いで山内上杉家を粉砕するも、当主・上杉顕定を取り逃した。結局は、その1年後に山内上杉氏は扇ヶ谷上杉氏を河越城まで追い込み、降伏させることに成功。
宗瑞は、山内上杉家と扇ヶ谷上杉家の両上杉氏を敵に回すことになるのです。

ここで謀を案じ、越後守護代・長尾為景(上杉謙信の父)と連携し、越後と相模から両上杉を攻めることを風魔小太郎を通じて提案。為景も父・長尾能景を越後守護・上杉房能(上杉顕定の実弟)に見殺しにされていたことから恨みがあったため、為景も承諾。

越後守護・上杉房能(ふさよし)を夜襲で自害に追い込み、翌年に佐渡衆を率いて山内上杉当主・上杉顕定を攻撃して自害に追い込み(為景の叔父・高梨政盛が討ったという説も)、山内上杉の内紛を誘った。

宗瑞は、次なる敵を扇ヶ谷上杉家と定め、東相模の豪族・三浦同寸・義意(よしおき)父子を相模国三浦半島まで追い込み、三崎城にて三浦父子は討死した。現在の地名でも残っている「油壺(あぶらつぼ)」は、この時の戦で湾一面が血汐で染まりまるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」と言われるようになったとされる。

その後は、同盟先でもある上総の真里谷武田(まりやつたけだ)を支援するなどして、1518年に家督を嫡男の氏綱に譲った。翌永正16年(1519年)に死去した。氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町)を創建させている。

両上杉氏や足利茶々丸による、過度な年貢の取り立てから領民を守るために立ち上がった宗瑞は「四公六民」(田畑の収穫量の4割を租税、6割を個人の収入とするもの)という年貢の割合で領民の心を掴んだとされる。

偉大な父・宗瑞の後を継いだ氏綱は「北条氏」を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、代に渡って関東に覇を唱えることになる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました