今回ご紹介するのは、幕末に大活躍した長州藩の本拠地となった『萩城』です。
幕末に活躍した二大巨頭「長州藩(山口県)」と「薩摩藩(鹿児島県)」ですが、
そのうちの1つ「長州藩」の根城である『萩城』についてご説明させていただきます。
Introducing this time is “Hagi Castle”, which became the home of the Choshu clan, which was very active at the end of the Edo period.
The two giants who were active at the end of the Tokugawa shogunate, “Choshu Domain (Yamaguchi Prefecture)” and “Satsuma Domain (Kagoshima Prefecture)”,
I would like to explain one of them, “Hagi Castle,” which is the root castle of the “Choshu Domain.”
- 関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が周防・長門の2カ国へ減封【Terumoto Mori, who lost in the Battle of Sekigahara, was reduced to two countries, Suo and Nagato】
- 日本海に突き出している指月山に築かれた『萩城』【”Hagi Castle” built on Mt. Shizuki, which juts out into the Sea of Japan】
- 歴代の毛利家名君を祀る「志都岐山(しづきやま)神社」【”Shizukiyama Shrine” that enshrines successive Mori clan names】
- まとめ【Summary】
関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が周防・長門の2カ国へ減封【Terumoto Mori, who lost in the Battle of Sekigahara, was reduced to two countries, Suo and Nagato】
時は遡り、戦国時代末期の1600年(慶長5年)、天下を二分する「関ヶ原の戦い」が勃発します。
時の権力者である徳川家康が率いる東軍と豊臣政権をなんとしても維持したい石田三成率いる西軍が
美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で激突します!
結果は、ご存知の通り、徳川家康率いる東軍が圧勝で幕を閉じますが、実はこの時に西軍総大将だったのは今回の主人公である【西国随一!山陰・山陽の大大名・『毛利輝元』】だったのです。
石田三成は人望がなく、総大将には不向きだったため、豊臣政権にて※五大老の一人であった毛利輝元が毛利の外交僧・安国寺恵瓊に担ぎ上げられ、名目上の総大将になっていました。
なお、毛利輝元は謀将・毛利元就の孫です。
※五大老…徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家のこと。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
そのため戦後は、当の輝元本人は※戦に関わっていなかったものの、西軍総大将としての責任を取らされ、中国地方全域(広島・山口・島根・鳥取・岡山県の一部地域)112万石から周防・長門(両国とも現在の山口県全域)36万9000石に大減封されてしまうのです。
※毛利輝元は関ヶ原の戦い時に大坂城に入城していたが、家康と刃を交わえたい訳ではなかったため三成らが関ヶ原で敗れた後、本領安堵を条件に家康との和議をしたものの、後に家康が約束を反故にして減封という沙汰が下った。
全国 史跡巡りと地形地図より
そのため、幕末まで苦しい生活を過ごしてきた毛利家。しかし、この辛い経験が幕末まで引き継がれ、長州藩として悲願だった徳川幕府を倒すのです。
Time goes back, and in 1600 (Keicho 5th year) at the end of the Warring States period, the “Battle of Sekigahara” that divides the world into two broke out.
The East Army led by Ieyasu Tokugawa, who is in power at the time, and the West Army led by Mitsunari Ishida who wants to maintain the Toyotomi administration at all costs
Clash in Sekigahara, Mino Province (currently Sekigahara Town, Fuwa District, Gifu Prefecture)!
As you know, the eastern army led by Ieyasu Tokugawa closes the curtain with an overwhelming victory, but in fact, the general general of the western army at this time was the main character of this time, “Saigoku’s best! It was “Terumoto”.
Since Mitsunari Ishida was unpopular and unsuitable for the general general, Terumoto Mori, who was one of his※five elders under the Toyotomi administration, was carried by Mori’s diplomatic priest Ankokuji Ekei, and was nominally general. I was a general.
Mori Terumoto is the grandson of Mori Motonari.
※Council of Five Elders: Ieyasu Tokugawa, Toshiie Maeda, Terumoto Mori, Kagekatsu Uesugi, and Hideie Ukita.
Therefore, after the war, Terumoto himself was not involved in the war. From stones, Suo and Nagato (both countries are all over Yamaguchi Prefecture today) will be greatly reduced to 369,000 stones.
※Mori Terumoto had entered Osaka Castle at the time of the Battle of Sekigahara, but since he did not want to have a blade with Ieyasu, after Sansei and others lost in Sekigahara, he made a consensus with Ieyasu on the condition of the relief of the main territory, but later. Ieyasu broke his promise and said that the seal would be reduced.
Therefore, the Mori family who had a difficult life until the end of the Edo period. However, this painful experience was passed on until the end of the Tokugawa shogunate, defeating the long-cherished Tokugawa shogunate.
日本海に突き出している指月山に築かれた『萩城』【”Hagi Castle” built on Mt. Shizuki, which juts out into the Sea of Japan】
関ヶ原の戦いから4年後の1604年(慶長9年)に、萩城の築城が始まりました。
輝元は、かつての室町幕府下にあった守護大名・大内家が繁栄を極めた『大内文化』が残る山陽側の山口市に本拠地を構えたかったが、それでは減封した意味がないとの徳川幕府の見解により、山陰側の僻地・萩に押し込まれた形になった。
萩城は指月山麓に築城されたことから、別名「指月(しづき)城」とも呼ばれます。
指月山の標高は143m。約1億年前の火山によってできた岩山で、花崗岩からできています。
山麓に平城、山頂に山城を合わせた一体型の平山城で、本丸・二の丸・三の丸・詰丸(指月山山頂)から構成されています。また、詰丸は城内と日本海を監視するために設けた場所です。
本丸は、桃山時代初期の様式で高さ14.5mの白亜五層の天守が築かれました。
天守跡を中心に土塁が内堀に沿っていて、武者走りや櫓台座跡があります。
また、萩城には白い石が石垣に使われており、この石は火山の噴火によりできた花崗岩で指月山から切り出せるものをそのまま石垣として活用した城であります。
山頂までは登山道があり、徒歩20〜30分ほどで着きます。石垣と土塀で囲っていた本格的な山城で、飲料や消火用の貯水施設出会った用水や池の跡なども残っています。また、石切場の跡も残っており、矢穴が開いた岩から築城の過程を紐解くことができそうです。
The construction of Hagi Castle began in 1604 (Keicho 9), four years after the Battle of Sekigahara.
Terumoto wanted to set up a base in Yamaguchi City on the Sanyo side, where the “Ouchi culture”, where the guardian daimyo Ouchi family, who used to be under the Muromachi Shogunate, had flourished, but there is no point in reducing the number of seals. According to the view of the Tokugawa Shogunate, it was pushed into a remote area, Hagi, on the Sanin side.
Hagi Castle was built at the foot of Mt. Shizuki, so it is also known as “Shizuki Castle”.
The altitude of Mt. Shizuki is 143m. It is a rocky mountain created by a volcano about 100 million years ago and is made of granite.
It is an integrated Hirayama castle that combines Hirajo at the foot of the mountain and Yamashiro at the top of the mountain, and consists of Honmaru, Ninomaru, Sannomaru, and Tsumemaru (Mt. In addition, Honmaru is a place set up to monitor the inside of the castle and the Sea of Japan.
The main castle was built in the style of the early Momoyama period with a 14.5m high five-storied white castle tower.
The earthworks are along the inner moat centering on the castle tower, and there are samurai running and turret pedestal traces.
In addition, white stone is used for the stone wall in Hagi Castle, and this stone is a castle that uses the granite that can be cut out from Mt. Shizuki as it is as a stone wall.
There is a mountain trail to the top of the mountain, and it takes about 20 to 30 minutes on foot. It is a full-scale mountain castle surrounded by stone walls and earthen walls, and there are still traces of water and ponds that I encountered in a water storage facility for drinking and fire extinguishing. In addition, the remains of the quarry remain, and it seems that the process of building the castle can be unraveled from the rock with the arrow hole.
歴代の毛利家名君を祀る「志都岐山(しづきやま)神社」【”Shizukiyama Shrine” that enshrines successive Mori clan names】
志都岐山神社は、萩城内の萩城跡指月公園にあります。
毛利元就をはじめ、隆元(元就の嫡男)、輝元、敬親、元徳を5柱とし、初代から12代まで歴代の萩藩主が祀られています。
また、志都岐山神社のミドリヨシノは珍しい桜の品種で、県の天然記念物に指定されています。
まとめ【Summary】
幕末に日本を武士→天皇中心の国家へと変貌させるきっかけとなった長州藩ですが、
その長州藩が250年間、本拠地としていたのが萩城。
萩が生んだ長州藩出身の偉人(吉田松陰・伊藤博文・久坂玄瑞など)は後々、日本国の在り方を変え、世界の列強国に並ぶ強い国にします。
まさに、この“萩”という地は日本の歴史を語る上で、切っても切り離せないのは間違いありません。
皆様も長州藩の原点・萩城で先人達の想いを感じてみてはいかがでしょうか。
At the end of the Tokugawa shogunate, the Choshu clan was the catalyst for transforming Japan from a samurai to a nation centered on the emperor.
Hagi Castle was the home of the Choshu clan for 250 years.
The great men from the Choshu clan born by Hagi (Shoin Yoshida, Hirobumi Ito, Genzui Kusaka, etc.) will later change the way Japan is and make it a strong country alongside the world’s great powers.
There is no doubt that this place called “Hagi” is inseparable when talking about the history of Japan.
Why don’t you feel the feelings of our ancestors at Hagi Castle, the origin of the Choshu clan?
コメント
源平合戦を読んで感心しました。勉強になりました。
平安時代貴族の内部構造が軍事衝突に拡大した結果、平氏と源氏が頭角を現し、中でも平氏の棟梁・平清盛は武士として初めて大政大臣に任命されるなど、前代未聞の出世をしましたね。しかしこれ以上権力を持つと歯止めが利かなくなり、ついに天皇を幽閉してしまうのです。自分の言う事を聞かない奴は天皇でも幽閉、恐ろしいことですね。そこで、源平合戦が始まるのですが、小さいいざこざからおおきないざこざ迄あるが、神戸の戦い、屋島の戦い、を経て壇ノ浦の戦いとなって、源氏が勝った。(実戦は長州藩だった)その後源氏は勢いを強め関東の源氏が集まって、鎌倉幕府を創った。
昔、子供のころ、土佐の片田舎の神社には土俵場が必ずらずあった。何かのもようし物には相撲があった。行事は何時も、口癖のように”壇ノ浦のくるしみをしよって!(苦しみを思い出してという意味)と、言っていた。この意味が今日分かった。源平合戦はそれほど苦しかったんだね。
ゆっこかっこ様
コメントをお送りいただきまして、誠にありがとうございます。
土佐の片田舎の神社には土俵場が必ずあり、相撲をされていたのですね。
“壇ノ浦の苦しみをしよって!”というフレーズは初めて聞きました。非常に勉強になります。
土佐には平氏の落人の伝説などが多く、平氏の落人がそのまま土着した可能性もあるので、
高知県は平家の血が流れている方が多いかもしれないですね。平家の子孫達に先祖が壇ノ浦の戦いで敗戦した時の苦い記憶を遺伝しているのではと思うと、歴史の壮大さを感じますね。
現在の天皇家に竹崎季長の屏風絵が有るらしい。国宝だと言う。天皇も季長になにか思いがあるようだ。
源平合戦は東軍と西軍の戦いだが、鎌倉幕府の後に出来ている、が、源氏系なんだろうか?分からない。
ゆっこかっこ様へ
竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」はまさに国宝ですね。日本の武士を代表するあの迫力と姿勢は、まさに武士道の精神を体現していると思います。
竹崎季長の出自に関しては、不明な点が多いですが、肥後菊池氏の一族という可能性が高く、もともとは鎮西探題の太宰府官で、菊池氏のルーツを遡ると平安時代の関白・藤原道隆に始まる出自との説もあります。全盛期の藤原道長を輩出した藤原北家がルーツだとしたら、壮大なスケールになりますね。
どちらにせよ、竹崎季長のルーツは有名な「源平藤橘」の可能性が高いと、私は考えます。