出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』仁科盛信
ご紹介させていただきますのは、武田勝頼の弟であり、信長率いる甲州征伐でも圧倒的不利な状況にも関わらず一度も降伏することなく徹底抗戦した武将・仁科五郎盛信の生涯について迫りたいと思います。
仁科盛信は、私個人としても非常に好きな武将で、義の武将といえば仁科盛信が第一に浮かぶほどです。一般的には戦国好きな方・長野県出身でないとあまり馴染みが無いかと思いますが、長篠の戦い以降、斜陽の武田家臣団の中で唯一、武田家のことを守るために必死で戦った武将であります。
木曾義昌や穴山梅雪といった親族衆であっても裏切りが止まらない中、信玄の五男として武田軍を牽引した姿はまさに武士の鑑であったに違いありません。
今回は、そんな盛信の生涯について深掘りしていきたいと思います。
信玄の五男として誕生!異母兄には武田勝頼が
仁科盛信は、父・武田信玄と母・油川夫人※の間に誕生しました。
義信や勝頼は異母兄にあたります。
※油川夫人…元々は武田氏の支流で、信玄の祖父・武田信縄の弟で、武田信昌の子油川信恵を祖とする。信恵が永正5年(1508年)の信玄の父・武田信虎による勝山合戦により討たれたが、油川信守、信友、油川信次と系譜が残った。その信守の娘が油川夫人である。
信玄は天文年間から信濃侵攻を本格化し、信濃国の国人の被官化を進めていました。信濃国安曇郡を領する仁科氏は天文22年(1553年)に武田方に帰属し、仁科盛政の支配期を経て信玄によって直轄領化をされました。盛信も永禄4年(1561年)に父の意向で仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継ぎ、親族100騎持の大将となりました。
その後、信玄は信長上洛の報を聞き上洛の支度に入り、三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田連合軍を粉砕するものの、持病が悪化し無念の帰国。その後、武田勝頼が信玄の跡を継ぎ、序盤は高天神城攻略など信玄が成し遂げられなかった功績を上げるものの、一つの誤りが長篠の戦いへと誘因され、馬場美濃守信房や山県三郎兵衛尉昌景、内藤修理亮昌豊といった武田四天王や多くの古参家臣を失うことになります。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 武田勝頼
そんな斜陽の武田軍でしたが、勝頼は外交面で補おうと画策します。
信玄でも成し遂げられなかった軍神・上杉謙信との同盟締結や、新たな府中を確立するための新府城の建設開始といった改革を始めます。
しかし、世の情勢は奔走する勝頼をいとも簡単に見捨てました。上杉謙信が急死し、跡を継いだ景勝の味方をしたことで北条との甲相同盟も破断。武田家は四方八方を敵で囲まれることになるのです。
そんな中、盛信は甲越同盟の締結後にも国境警備を務め天正9年(1581年)に対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城主を兼任し、本格的に予想される織田・徳川連合軍による侵攻に備えました。
その予感は的中し、翌年に武田家が滅亡してしまう未曾有の危機が訪れるのです。
織田軍による甲州征伐開始で、武田軍は朝敵に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 織田信忠
天正10年(1582年)、織田信長が軍勢を編成し、嫡男・織田信忠を総大将に5万の軍を起こして信濃国に進軍(甲州征伐)してきました。信長は朝廷に働きかけ、武田軍は「東夷」として朝敵にされてしまったのです。また、それを畳み掛けるように当時不吉なことが起きると言われていた浅間山の噴火も同時期に発生したことで信濃国中が騒ぎます。そんな中、信玄の娘を妻にしている親族衆の木曾義昌が突如反旗を翻し、穴山梅雪も徳川方に内通し、勝頼は疑心暗鬼に陥ります。
勝頼は木曾義昌を叩くべく、信玄弟の武田信繁の嫡男である武田信豊を派遣するも、雪で進軍ができずに時間を要してしまいます。武田家臣の中でも大島城主を務める信玄弟の武田逍遥軒信廉は敵前逃亡したり、信豊も本国甲斐に撤退するなど、親族衆でありながらまともに戦いを避けたり、裏切りが相次ぎました。そのような中、一人だけ勝頼に忠義を尽くす者がいました。
その人物こそ、今回の主人公である・仁科盛信です。
盛信は、兵3,000(500とする説も)で高遠城に籠り、信忠が率いる5万の大軍に包囲されました。このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが盛信はこれを拒否し、使いに来た僧侶の耳を削ぎ落として追い払ったのです。このあまりにも徹底抗戦を構える盛信に対し、信忠は総攻撃を開始しました。
盛信は大奮闘したものの、多勢に無勢。
高遠城は、3月2日早暁から織田軍の猛攻に晒され、盛信も奮闘した後に自刃しました(享年26歳)。約500名余りの家臣も共に玉砕して高遠城は陥落しました。しかし、盛信の奮闘ぶりに織田軍も300人の死者を出したといわれています。盛信の首のない遺体は勝間村の農民が屍を探し出し、村の若宮原で火葬したあと村の西の山に埋葬されましたが、その地は今も「五郎山」と呼ばれています。
地元の領民からも慕われ、勝ち目が無いとわかっていても主君のため、兄のために必死で戦った盛信。
まさに武士の鑑ではないでしょうか。
しかし、盛信の奮闘も虚しくその後も武田家は立て直しが効かず、最終的には小山田信茂の居城・岩殿城に向かったものの、最終的には信茂にも裏切られて勝頼は武田家ゆかりの天目山で自害。ここで新羅三郎義光から始まった名門・甲斐武田家は滅亡することになるのです。
あの信長も盛信の奮闘ぶりを高く評価したと言われています。なお、主君を最後に裏切った小山田信茂は織田軍に投降後、一族共々粛清されています。さすがは信長、裏切ったものには容赦ないですね。
武田家で唯一と言っても良いほど、本気で織田軍に刃を向けた仁科盛信。その英雄の姿は今も故郷で語り継がれています。長野県の県歌である「信濃の国」では、源平合戦の英雄である旭将軍・木曾義仲、儒学者の太宰春台、幕末の洋学者・佐久間象山らと共に仁科五郎盛信の名があります。
現代の長野県のヒーローとして語られている仁科五郎盛信は、武士の忠義を一番に体現している人物ではないでしょうか。私は盛信に敬意を表したいと思います。
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