【超大作!】邪馬台国の女王・卑弥呼の正体は、太陽だった!?【The true identity of Himiko, the queen of Yamatai, was the sun!?】

歴史上の人物
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邪馬台国の女王・卑弥呼【Himiko, the queen of Yamatai country】

今回は、邪馬台国の女王・卑弥呼は、太陽だった!?をご紹介させていただきます。
誰もが社会の授業で一度は見たことのある卑弥呼の肖像画。
私は、初めて歴史の授業のガイダンスがあった時、偉人の肖像画シールがたくさんあり、織田信長や坂本龍馬など数々の偉人を見ていく中で一際異彩を放ち、私の心の中で妙に気になって仕方がなかったのが、卑弥呼でした。

「古代の日本にはこのような人物がいたのか」と思って、授業を楽しみにしていましたが、弥生時代の一部分で文献も数少なったため、さらっと紹介する程度で終わってしまいました。
それからというものの、大学の図書館や本屋で「卑弥呼」関連の本を読み漁り、現在に至っています。
それほど、この人物は日本の歴史の鍵を握る重要な人物であると思い、なんとしても知りたい!と強く思っていました。

今回は、私が十数年間の学習で培った卑弥呼の人物像と概要をご説明させていただきます。
また、西晋(現在の中国)の官僚・陳寿が記録した「魏志倭人伝」の要約も含めた内容で、かなり専門的な話になるかと思います。
卑弥呼は私が特に力を入れてきた分野であるため、今回の内容は研究結果の「集大成」になるかと思いますので、皆様も楽しんでいただけたらと思います。

This time, “The Queen of Yamatai, Himiko was the sun! ?? I will introduce.
A portrait of Himiko that everyone has seen once in a social class.
When I was given guidance for a history class for the first time, there were many portrait stickers of great men, and when I saw many great figures such as Nobunaga Oda and Ryoma Sakamoto, I was very different in my heart. It was Himiko that I couldn’t help but worry about.

I was looking forward to the lesson, wondering if there was such a person in ancient Japan, but since there were few documents in the Yayoi period, I just introduced it briefly. ..
Since then, I have been reading and fishing for books related to “Himiko” at university libraries and bookstores.
I think this person is an important person who holds the key to Japanese history, and I want to know it anyway! I strongly thought.

This time, I would like to explain the character and outline of Himiko that I have cultivated over a dozen years of study.
In addition, the content includes a summary of “Wajinden” recorded by Chen Shou, a bureaucrat of Western Jin (currently China), and I think it will be a very specialized story.
Himiko is a field that I have been particularly focusing on, so I think this content will be a “masterpiece”, so I hope everyone will enjoy it.

「自然」という恐怖に対しても互角に渡り合えた女王・卑弥呼Himiko, the queen who was able to evenly cross the fear of “nature”

佐賀県にある吉野ヶ里遺跡【Yoshinogari Ruins in Saga Prefecture】
吉野ヶ里遺跡内にある神々に祈りを捧げていたとされる部屋【A room allegedly praying to the gods in the Yoshinogari ruins】

縄文時代後期〜弥生時代にかけて、大陸から稲作文化が流入し(諸説あるが倭国内で既に稲作をしていた説もある)、核共同体はその地に定住をし始め、「ムラ」から「クニ」へと大きな規模になっていきました。

しかし、定住を始めると必ず争いになります。あるムラには水がいっぱいきているのに、他のムラには水が来ない。水が来ないと生活できないですよね。ここで水を取り合う争いが生まれます。
争いの結果、勝ち続けてきた共同体がやがて規模が拡大し、「クニ」へと変貌します。

他国に攻め込まれないように対策された堀や乱杭・逆茂木など【Moats, random piles, abatis, etc. that are protected from being attacked by other countries】

「クニ」と「クニ」の争いは規模が大きいため、戦いが長期化しますよね。
ここで「倭国大乱」という列島規模の大戦が始まります。
争いの結果、邪馬台国の卑弥呼という女性が女王に君臨することで、戦いは終結します。

しかし、なぜ卑弥呼がこの未曾有の大戦を収めることができたのでしょうか。
その鍵を握るのは卑弥呼が「女性」ということです。

これまで倭国内にある各クニは、男性を王としていました。その例に、現在の福岡市近郊にあったとされる「奴国」は、後漢(現在の中国)の洛陽に配下を派遣し、後漢の皇帝から「漢倭奴国王」という金印を贈られたりして、各クニは独自の経済圏を持っていました。

金印|福岡市博物館 より
(江戸時代に志賀島で発見された奴国の「漢倭奴国王」)

女性という点では、「三国志」に登場する『蜀』のヒーロー・諸葛亮孔明もあの天才軍略はである黄夫人が伝授していたという説もあります。つまり、古代の女性は天候を見抜く力が鋭かったという可能性が非常に高いのです。ちなみに邪馬台国と三国志の「魏・呉・蜀」は同時代です。

当時は天候を予測することが、生きていく上で最も大切なことであり、それはつまり神々からの使いであることを意味します。ある種、自然が最も恐ろしい存在であったのです。
自然が災害を起こせば、食べるものも無くなるし、飢饉も起きる。現代の自然に対する感覚とは大きく異なるため、実感できない人が大半だと思いますが、当時は死と瀬戸際の世の中で、自然そのものが神様だったのです

そのため、海、山、石、木など、自然のものには神様が宿っているという考えが生まれたのも理解できます。

そのような社会情勢の中で、男性が王だとまとまらず、女性でかつ天候を予測することができる神の使い・卑弥呼がトップに立ち、国をまとめ上げることで、混沌とした世の中から突破口を見つけ出そうとする当時の人々の考えが垣間見ることができます。

各部族が集まった会議で、神のお言葉をもとに大王が中心となって収穫の時期などを話し合う。【At a meeting where each tribe gathers, the Great King plays a central role in discussing the harvest time based on the word of God.】

卑弥呼は女王という肩書きでありながら、シャーマン(巫女)という役割が大きく占めていたため、普段は人と接することがなく、自身の弟と飲食を給支する男子にしか姿を見せなかったと言われています。
普段姿を見せないのは、古墳時代から始まるヤマト王権の「大王」にも同じことが言えますね。高貴な人物は姿を隠す。この考えは、この卑弥呼から始まったと言えるでしょう。

重要な決め事の時は、巫女が神々が交信していた。【At the time of the important decision, the shrine maiden was communicating with the gods.】

卑弥呼が女王になってからは、倭国大乱のような大戦は終結したものの、邪馬台国の傘下に入るのを拒む勢力(狗奴国)などもありました。
卑弥呼はそれらの国々と戦わなければならなかったのです。

余談ですが、なぜ卑弥呼は天候を読むことができたのでしょうか。
諸説ありますが、卑弥呼は極度の偏頭痛持ちであったと言われています。そのため、天候が荒れる時などは自身の体調の変化ですぐわかり、それが人々へ伝播されることで事前に対策を講じることができたということです。本人は相当辛かったのではと思いますが、多くの人の生活を守ることができたのは、卑弥呼のおかげだと言うことができるでしょう。

In the latter part of the Jomon period, rice culture flowed in from the continent (there are various theories, but there are also theories that rice was already cultivated in Japan), and the nuclear community began to settle there, from “mura” to “kuni”. It has become a large scale.
However, when you start settling, there will always be a conflict. One spot is full of water, but another spot is full of water. You can’t live without water. This is where the battle for water arises.
As a result of the conflict, the winning community will eventually expand in scale and transform into a “Kuni”.

The battle between “Kuni” and “Kuni” is large, so the battle will be prolonged.
This is where the archipelago-scale war called “Civil War of Wa” begins.
As a result of the battle, the battle ends when a woman named Himiko of Yamatai reigns over the queen.

But why was Himiko able to end this unprecedented war?
The key to this is that Himiko is a “female.”

Until now, each Kuni in the country had a man as the king. As an example, “Nakoku”, which is said to have been in the suburbs of present-day Fukuoka City, dispatched his subordinates to Luoyang in Eastern Han (currently China), and was given a gold seal by the Emperor of Eastern Han as “King of Na Gold Seal”. As such, each Kuni had its own economic zone.
In terms of women, there is also a theory that Mrs. Huang, the hero of Shu Han, who appears in “Sangokushi,” also taught the genius strategy of Zhuge Liang. In other words, it is very likely that ancient women were keen on seeing the weather. By the way, Yamatai Kuni and Sangokushi’s “Wei, Wu, Shu” are of the same era.
Also, at that time, predicting the weather was the most important thing in life, which means that it was a messenger from the gods. Nature was, to some extent, the most terrifying being.
When nature causes a disaster, there is no food to eat and famine occurs. I think most people can’t really feel it because it’s so different from the modern sense of nature, but at that time, nature itself was a god in the world of death and the brink.

Therefore, it is understandable that the idea that God dwells in natural things such as the sea, mountains, stones, and trees was born.
In such a social situation, Himiko, a god’s messenger who is a woman and can predict the weather, is at the top of the list, and by putting the country together, a breakthrough from the chaotic world. You can get a glimpse of the thoughts of the people at that time trying to find out.
Although Himiko has the title of Queen, it is said that because the role of shaman (shrine maiden) occupies a large part, he usually does not interact with people and only appears to his younger brother and boys who provide food and drink. increase.
The same thing can be said about the fact that she doesn’t usually show up in the “Great King” of the Yamato kingdom, which began in the Kofun period. The noble person hides. It can be said that this idea started from this Himiko.

After Himiko became a queen, although the war like the Civil War of Wa was over, there were some forces (Gounuguo) who refused to join the Yamatai nation.
Himiko had to fight those nations.

As an aside, why was Himiko able to read the weather?
There are various theories, but it is said that Himiko had an extreme migraine headache. Therefore, when the weather was rough, he could immediately tell from the change in his own physical condition, and by transmitting it to people, he was able to take measures in advance. I think he was quite painful, but it can be said that he was able to maintain the lives of many people thanks to Himiko.

邪馬台国の場所は!?「魏志倭人伝」から読み取る本当の姿Where is Yamatai country!? The true figure read from “Wajinden”

ここからは、皆様お待ちかねの “邪馬台国の場所” について考察していきたいと思います。
大きく分けて、九州説近畿説が有力とされていますが、最近では越前説という可能性まで出てきています。果たして何処なのでしょうか。「魏志倭人伝」を基に紐解いていこうと思います。

魏志倭人伝は、三国志の時代【魏・呉・蜀】の後、魏の後釜政権・晋時代の歴史家・陳寿(233年〜296年)が撰したもので、正史とされている大変貴重なものです。
この陳寿が、倭人の情報を記したものが「倭人伝」です。秦の始皇帝の時代にも、「東方の三神山に不老不死の霊薬」があるとの言い伝えがあり、側近の徐福(じょふく)を遣わしたほどです。
それほど、中国から見て “東夷” に位置する倭国は大変重要な国だったことが伺えます。

もっと知りたい!三国志 より

早速ですが、魏志倭人伝を要約していきたいと思います。
魏から邪馬台国までのルートを解説します。

帯方郡(朝鮮半島)から対馬国(対馬)までの記録
「倭人は帯方郡朝鮮半島)の東南の中に在り、山島九州島)に依りて国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者(博多湾近辺に存在した奴国のこと)有り。今、使訳する通ずる所(魏と朝貢関係にある国のこと)三十国。郡より倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国朝鮮半島西側の馬韓のこと)を歴るに、乍ち南に乍ち東に、その北岸に狗邪韓国現在の釜山辺り)に至る七千余里。始めて一海を渡る千余里にして、対馬国現在の対馬)に至る。その対馬の代官を※卑狗(ひこ)といい、副代官を※卑奴母離(ひなもり)という。居る所は絶島にして、方四百余可り。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の道に如し。千余戸有るも、良い田は無く。海産物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴す(交易において対馬では良い米が取れなかったため、名産の塩を売って、他国から米や鉄などを購入していた)。
※卑狗・卑奴母離…伊都国(現在の福岡県糸島市)に置かれた倭国の辺境防備官で、外国から邪馬台国を中心とする女王連合国を防衛する武官。

魏志倭人伝の夢 より

壱岐国(壱岐)から伊都国(福岡県糸島市)までの記録
対馬国から南へ一海を渡ること千余里、名付けてりん海(玄界灘か?)といい、一大国壱岐)に至る。官を亦た卑狗といい、副官を卑奴母離(対馬と同様の人物)という。方三百里可り。竹林・叢林多く、三千許の家有り。やや田地有るも、田を耕すに猶食うに足らず、亦た南北に市糴す。
又た一海を渡り、千余里にして、末盧国諸説あるが、長崎県松浦市・佐賀県伊万里市・唐津市近辺)に至る。四千余戸有り。山海に浜うて居り、草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚腹(あわび)を捕え、水の深浅と無く、皆沈没して之を取る。東南に陸行すること五百里、伊都国福岡県糸島市)に至る。官を爾支(にし)といい、副官を世謨觚(せもこ)・柄榘觚(へくこ)という。千余戸有り。世王有るも、皆女王国に統属(邪馬台国の支配下)し。

御領の古代ロマンを蘇らせる会 より

伊都国(福岡県糸島市)から邪馬台国(北部九州 or 近畿?)までの記録
伊都国から東南して奴国現在の福岡市)に至る百里。官を只馬觚(しまこ)といい、副官を卑奴母離という。二万余戸有り。東行して不弥国福岡県宗像市?が有力)に至るに百里、官を多模(たま)といい、副官を卑奴母離という。千余家有り。南して投馬国不明。九州説の場合、薩摩(鹿児島県)or 宮崎県西都市 or 福岡県久留米市 近畿説の場合、但馬国 [現在の兵庫県] or 出雲地方 or 山口県防府市 or 広島県福山市のことか? 越前説の場合、但馬国)に至るに、水行二十日。官を弥弥(みみ)といい、副官を弥弥那利(みみなり)という。五万余国可り。南、邪馬壹國不明。北部九州(北九州 熊本 筑後平野) or 近畿 or 越前 etc)に至り、女王の都する所にして、水行十日、陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳跿(なかと)という。七万余戸可り。女王国自り以北、その戸数道理、得て略載すべきも、その余の傍国は遠絶にして、得て詳かにすべからず。」

エンタメ!歴史博士 より

このように「魏志倭人伝」を解読していきましたが、皆様はどのように感じられたでしょうか。
私個人の考えとしては、この文献から読み取る限り、邪馬台国・九州説は難しいのではと考えます。
なぜなら、投馬国から邪馬壹国のルートで「女王の都する所にして、水行十日、陸行一月」とあります。つまり、航海だと10日、陸で行くと1ヵ月かかるということです。九州北部間での移動では、そこまで日にちはかからないと思いますし、無理があると思います。

仮に投馬国を薩摩の方に否定したとしても『北部九州→薩摩→北部九州』の順番で説明されているのはおかしいですし、辻褄が合わないと思います。
個人的には九州に住んでいるため、九州説を信じたかったのですが、志倭人伝のみで判断すると非常に難しいのではないかと思います。

しかし、魏志倭人伝が必ずしも正しいとは限りません。九州にも古代から独自の経済圏があったことは間違いないでしょう。
例えば、当時としては巨大な吉野ヶ里遺跡や、宗像大社など、外せない注目ポイントは多々あります。
また、独自の経済圏があったとの根拠に読み方があります。図をご覧ください。

この何の変哲もない駅看板ですが「なかばる」という駅名があります。
漢字で書くと「中原」と書くのですが、九州以外に住まわれている方の大半が「なかはら」と読むのではないでしょうか。しかし、九州では「原」という漢字を「ばる」と読むのです。

面白いですよね〜!理由は諸説あるようですが、一説には朝鮮半島では村のことを「マウル」というらしく、それが鈍って「まうる」→「ばる」になったとか。
このように本州とは異なる独自の経済圏を持つ九州。この九州島の一部(伊都国・奴国など)が女王国と確定したなら、九州全土が邪馬台国ではないのかと思いたくなるのも十分わかります。

結論としては、「魏志倭人伝」を読み解く限り、越前(福井県)が最も邪馬台国に近い場所と考えます。なぜなら、近畿説の場合、潮の流れが激しい瀬戸内海を古代の時代にうまく操縦できたかも不明確でありますし、それに比べると日本海側の対馬海流は潮の流れが安定しているため、『沖乗り航法』などで簡単に福井まで到達することができます。また、米の収穫量に関して当時の日本の中でも福井県は非常に高かったため、七万余戸の人口を養える経済圏にあると考えます。

日本海側は大陸からの影響がより受けやすい場所にあるため、越前国が大陸からの豊かな文化で、国が栄えたということも十分に考えられます。

浦島太郎の竜宮城のお話では、亀(外国人)を助けた浦島太郎(本国の人)がそのお礼で、その外国人の母国に案内されてそこでゆっくり時を過ごしていたら、母国へ帰国した時に気が付いたら相当な年月が経っていたことを物語にしたのが由来となっていることや、羽衣伝説の天女も実の正体は外国人で朝鮮半島やロシアの人がモチーフになったという可能性も否定できません。
つまり、天とはその人の母国を表しているのではないでしょうか。当時の航海は生きるか死ぬかのいわば一世一代の賭けのようなものだったので、「天(母国にある故郷)に帰れなくなる」と言ったことに納得ができます。
それを裏付けるかのように日本海側にはそのような伝承が非常に数多くあります。調べてみると面白いですね。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』浦島太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』羽衣伝説(滋賀県長浜市 余呉湖)

最後は話が少し脱線してしまいましたが、この内容を見る限りでは邪馬台国・越前説が濃厚と考えます。
皆様も自分なりに考えてみてはいかがでしょうか。歴史のミステリーは学ぶと楽しいですよ。

実は、「魏志倭人伝」には続きがある!?In fact, there is a continuation in “Wajinden”!?

邪馬台国の記述まで前回、ご紹介させていただきましたが、実は「魏志倭人伝」には続きがあるのです。今回は特別にご紹介させていただきます。

「邪馬台国の次に、斯馬国(不明)有り、次に巳百支国(不明)有り、次に伊邪国(不明)有り、次に都支国(不明)有り、次に弥奴国(吉野ヶ里遺跡?)有り、次に好古都国(不明)有り、次に不呼国(不明)有り、次に姐奴国(不明)有り、次に対蘇国(不明)有り、…………この後も国が続く。
女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国有り、皆倭種なり。また侏儒国(不明)有りて、その南に在り、人の長三・四尺、女王を去る四千余里。又た裸の国・黒歯の国(インカ帝国設立前の国??)有りて、またその東南にあり、船行すること一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶へ或いは重なりて、周旋五千余里可りなり。」

ちょっと待ってください!!!まだこんなに国が出てくるんじゃないですか!!
今まで論争する人は絶対、邪馬台国までの記述しか見て判断していないですよね。これはもう一から検討する必要がありますね。そうしたら、国と国の間の範囲が狭いということで九州説も十分に考えられそうです。
また、南米の国まで可能性に上がってきました。もし、そうだとしたら邪馬台国を筆頭とする政権は超巨大なものであった可能性が高くなります。太平洋を横断して交易を行っていたとしたら、歴史の見直し方が大きく変わると思います。

邪馬台国を特定する上で、後に出てくるこれらの国を特定することが急ピッチで進める必要があるようです。それにしても邪馬台国・女王卑弥呼は本当に世界を股に掛けるとてつもない人物だったかもしれませんね。

卑弥呼が眠っているのは、ユネスコ世界文化遺産の『神宿る島』!?Himiko is sleeping on the UNESCO World Cultural Heritage “Kamijuku Island”!?

ここからは、私個人の見解ですが、卑弥呼は亡くなった後、神宿る島と呼ばれている「沖ノ島」に安置されたのではないでしょうか。
沖ノ島は、宗像大社の沖津宮がある場所であり、女人禁制で男性でも海中で禊をしないと入島できないほど、とても神聖な場所です。

対馬散歩道 より 【真正面に微かに見える「神宿る島・沖ノ島」】



しかし、なぜそこまでする必要があるのでしょうか。その理由は「卑弥呼が眠っているから」ではないかと推測します。かつての超大国を収めた邪馬台国女王・卑弥呼はまさに“太陽”のような存在でした。
そこで、建国神話の中で天照大神(=卑弥呼)が誕生したのではないかと思います。

偉大な英雄・卑弥呼を神宿る島「沖ノ島」に祀ることで、神道始まりの地「壱岐」から太陽が昇る東の方角はちょうど沖ノ島です。壱岐の人々が朝日と同時に昇る太陽に手を合わせ、お祈りすることは、つまり卑弥呼を崇めていることになるのではないでしょうか。

また、宗像三女神の沖ノ島に祀られているのは三女神の長女「タゴリヒメ」で、異国からの侵略がないか、そして航海する人の安全を見守るため、結婚することなく生涯独身を貫いた神様と言われています。
卑弥呼に共通する部分があるのではないでしょうか。卑弥呼も国の平和のため、毎日お祈りをして民の生活を守る役割を果たし、結婚はしませんでした。
これは偶然でしょうか??私には、どうにも同一人物のような感じしかしませんでした。

つまり、タゴリヒメ(=卑弥呼)という神様が卑弥呼の功績を讃えて、誕生した。

つまり、「卑弥呼=天照大神+タゴリヒメ」という構図が出来上がります。
卑弥呼は邪馬台国の女王(太陽のように周りを照らす存在)として、そして巫女(シャーマン)として民の生活を守る(国を守る)としての働きをした結果、二つの神様が合わさった存在として今も日本人の心の中に居続けているのではないでしょうか。

コメント

  1. SUN より:

    It’s brilliant‼︎

  2. より:

    SUNさまへ

    メッセージをお送りいただきまして、誠にありがとうございます。
    お褒めのお言葉をいただきまして、嬉しい限りです。

    これからもお楽しみいただけると幸いです。

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